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Blog ~バックナンバー~

2021年9月27日(月)個性というもの

個性というのは生まれながらのものもあるけれど…それは動物的なというべきもので、たしかに在ると思う。

でもそれ以上に、時間をかけて「育まれるもの」ではないのかと感じています。

育まれるとは、「生来」のつぎにくる「育った環境」もあるでしょう。

でもそれ以上に、育った環境を離れて一人生きてゆくわけで、その時間の方が人生はずっと長い。

その人がどう感じて、どうしたいか、それが積み重なった時に、結果として現れて、それがだんだんと個性のようになっていくのではないかしら、と思う。

何が心に響いて、何が好きで、何を大切にしたいか。

それははっきりするとしても、何に違和感を感じるか。違和感、これが意外に重要で、これはちょっと違うなぁ、とほんの少しそこで角度が変わったとしても、10年経ってみるとずいぶん違う方まで来ちゃっている。

そして来ちゃった先には、なんとなく、どこか共通の感覚を持った人が何人か居たりする、、、不思議さよ。

2021年7月31日 夏を楽しんで

8月8日昼に神戸Big Apple、

9日夕方 奈良ならまち Blue Noteで演奏致します。

とても楽しみにしています。体調を整えて、楽しい気持ちで伺います!

2021年3月23日(水)LIVEが久しぶりでも

LIVEとしては久しぶりでも、ずっと音楽のことを考えて暮らしている。

何を聴いても、聴かなくても。

そのことに自分で気づいて、ちょっと驚いた、意外だった。

LIVEは久しぶりでも、いつもの通りにいつもの気持ちでやるような感じだ。特別な感じはしなくて、淡々と、日常生活の通りに演奏することになるでしょう。一方で、こうも言える。案外にも演奏中は、(いつものように)チャレンジ精神であれこれやっている。いろんなドラマが起こっている…。それだから、じつのところぜんぜん淡々としていないわけなんだけど。

今日の中野sweetrainは、ご飯も美味しい、音楽のための、いいところ。4月2日の水道橋店は、ちょっと変わった感じのするお店…ちょっと80年代っぽいというのかな、それが徹底していて面白い。

歌うってどういうことなのかな。作曲家と歌手の間にあるものは? 作曲者が私の場合は? ずっと求めて、探して、やってみて、試してみて、手を伸ばして触ろうとしているのに、掴めたような気がしてもまたスッと逃げて、いつまでも届かない。

2021年1月9日(土)今日は歌舞伎を鑑賞してきた。

今日は歌舞伎座に行ってきた。じつは初めての経験でした。すごく良かった、これは想像以上に良かった。十分に大人になって観たのが良かったのかも知れない。日本に居て、自分の中の日本的な部分を痛いほど感じたという経験も稀有だった。歌も、踊りも、芝居も、音楽も、それから歌舞伎座の雰囲気も。

いまは十分に感染対策されているし、空いてるし、パフォーマンスする方は誰だって感謝と気合が入ってるし、いまは狙い目、どんどん行きたい。クラシックコンサートなんかも。アートは何でも。いまは吸収の、またとない機会。

2020年11月23日(月祝)大徳俊幸 (P)さんのこと

久しぶりにピアノの大徳俊幸さんと演奏して頂けることになった。

大徳さん…私にとっては数々の伝説のピアニストなのだけど、世の中でも、そうなのかな。たぶん、きっとそうだな~~

遠い昔、まだ私が、演奏を始めてよちよち歩きだったころに、なぜかご一緒に演奏させて頂いたことがあった。それも一度や二度じゃなかったと思う。なぜご一緒の活動が止んだのかも覚えていないけれど…それはたぶん、私が恐縮し過ぎたんじゃなかったかな。

けれども演奏の感覚ははっきりと覚えていて、空間がねじれるというか、あの感覚が忘れられなかった。私がこう、というコードとメロディでいるのに対して、構成音をシャッフルしたのかな、不思議な音で重ねて来られて、何か空間がゆがむ…ような感覚に陥ってしまう。それが快感で。

なぜですか、とお聞きしたら、「だって一人で完結してるんだから、こっちの役割っていうのは一つしかない」というようなことを仰っておられました…。

いつかいつの日か、わたしがもっと上手になったら。きっと、必ずまたいちどだけでもご一緒にやって頂きたいな…と、それこそ何十年も願ってきた。

いつかきっといつかきっと、と思っているうちにcovid-19 禍なんかも起こってきて、想像を絶することが世の中には起こる。上手になるかもわからない。「いつか」は来ないのかも。やりたいことはどんどんやらないといけない。と、このたび思い切って行動してみたという次第。

「ピアノだから」では決してなく、「大徳さんだから」。ミュージシャンたるもの、そうありたい。うわ~ん、ちょっと怖いような。私に何ができるのだろう、と思いながら。

2020年8月23日(日) ピアノと歌

最近の愛聴盤は、「River 」というアルバムで、Herbie Hancockのリーダー作品です。

このアルバムは全然知らなかったのだけれどどうやら Joni Michel 曲集なのらしい。何人かの歌手と朗読も参加している。歌手は星の数ほど居るのに私の好きな歌手が二人も入っていて、それだけでも興味をひかれる。聴いていると知らずとまた聴きたくなって、最近ではすっかりどうもこれは、愛聴盤になってしまっているみたい。

さきのブログで、弾き語りについてちょっと書いたけど、それとは別にピアノと歌の関係について思うことあって…。そうだよね、当然そうなるよね、こんな風にあってほしいよねと感じるそんなアルバムなのだった。伴奏じゃ全然なくて。ピアノと歌だと関係がわかりやすく出てしまうけど、本当はどんな楽器でも歌でもすべてそうあるべきなんでは。音楽は。ピアノと歌の関係について、ずっと考えていた自然なことを、目の当たりにさせてもらったアルバムだったのかもしれない。

各自が勝手にやっていている、もちろん調和している、全体としてそういう感じが大切なんじゃないのか、と私は思う。演奏しているとき音楽への入り方も出かたも、そんな風にあるべきなんじゃないのかしら。ここに参加しているWayne Shorter というサックスの人も、一体どんなふうになってるのか、全体の中にただ「在る」というだけで。そこだけ聴いていると何をやっているのか私にはよくわからない…、まるでソロをとったり何かのフレーズを作ることなどダサいと思っているみたいだ。居ることだけが大切で、と、そんなような。そうなんだ…どんなふうに音楽を考えているのでしょうこの方は。(恥ずかしながらHerbie HancockもWayne Shorterも知らないので勝手なこと書いてます)

歌があまりにも凄すぎるとき、周り全員が “歌のための伴奏” になってしまうということを時々目撃する…それはしょうがないこととも思う。素晴らしい歌というのがそうさせてしまうのも、なんとなく、わかる。

でも私は音楽では、そういうのより、やっぱりみんなで調和してぐらぐら揺れてるのが好きみたい。そういうのが聴きたいし、そういうふうに音楽をしたい、とも思う。

ピアノと歌なら、(信頼関係のもと)どこまでも歌が自由に、解き放たれてほしい。このアルバムの中では Colinne Bailey Rae の曲の中に、この理想形をみて、本当にどきどきする。いつか私は何かにハンギングされているような、そして空に向かって駆け出していけるような気もちになってくる。

私は全曲知らなかったけど、みんながよく知った曲を使ってアルバムが作られているような気もする。これだけ歌が強いアルバムで、こんな風に音楽ができる歌手が選ばれている。ピアノが存在して素敵に鳴っていて…音楽だけが純粋な水のようにあふれていて。空気が変わるような、冷たい水に足をつけるような、あの感覚にまた浸りたくて、この夏はこの1枚を、ただ聴いている。

2020年7月26日(日)弾き語り

先日、Joni Mitchell 75歳アニバーサリーLIVEというDVDを購入して、観た。Joni Mitchellその人は、よく知らないんだけど…。(本人は歌っていないDVDだった)

私の知らないたくさんの歌手が出て、彼女を称え、彼女の歌を歌って、中には弾き語りもいた。弾き語り。この不思議な世界。

「弾き語りの人が楽器を置いて歌ったときにはとてもいいんだよ」と、先輩ミュージシャンが言っていた。けれども、私の見たところ、弾き語りの人間から楽器を取って歌ってもらっても、何かとても覚束なくて…。楽器を得て見せる笑顔、やっと水を得た魚というか、「やっと水だ、水、これで息ができる」みたいな、どの人からも一様にそんな不思議な印象を受けてしまう。もちろん、演奏にはどちらもあってもいいんだけれど、どうしても自分にはその印象が拭えない。ほら、ピアノの前に彼女が座った、ちょっと座りなおして、腕が、指が嬉しそうだ…と見えてしまう。

弾き語り、この不思議なものよ。

ピアノでもギターでもなんでもいいけど、歌いまわしというか、楽器の奏でる音とともにそこに何か生まれる自然な感じ。歌だけより自然な感じ。下手とかうまいとかでなく。その人がその楽器とともに長い時間を生きてきた、その親密な感じを受けるからかな…。長い人ほど、カラダに楽器が「嵌っている」という気がする。いやギターだけかな。ギターという楽器は、全く、なんて内向的なんだろうな。悲しいギター。やっぱりギターだよねぇ。

そうだ目指してるトコがあるのだ、たどり着きたいんだ、とはっきり自覚するのは、こうして立て続けにたくさんの弾き語りを見るときだ。弾き語りはみんないい。みんなが自分の歌を歌ってとてもいい。(´~`*) 

そのDVDで、Diana Krall が良かった! 何年か前に観たり聴いたりした時より、ずっとずっとずっとずっと良かった。そうか、これだったのか、彼女の本懐は。レコード会社の意向か、その美貌がアップになったり肩や足を出したりしてるワケわからないアルバムも聴きかじってみてたけど、コレ違うでしょ、という印象の方が強かった。何か白々しいというか。その勘は当たっていた…。生活のための音楽と自分がやるべき音楽とを、ちゃんと分けてるんだ、きっと(当たり前か。何を今更)。じゃ、何とか商業的でないLIVE見つけるしかないじゃん⁉ ソレ、日本に居ちゃ難しい…。

今回出会えてとても良かった。LIVEの弾き語りは素晴らしかった。横でNorah Jones が目を閉じて、心で聴いていた。私も、そこで、いっしょに聴いていた。

2020年5月9日(土)好きなラジオ

文字、動画、音楽については、従来のデバイスを超えて別のデバイスで供給されるようになって久しい。利用者の側からすると選択肢が増えたこと、便利なこと、安価になったことなどメリットが大きいかもしれない。でも、制作側からしてみると、デバイスが変わったときには従来方式では全くうまくいかなくて、形式を変えざるを得なくなったり、従来ルールが利かなかったりして困るのが常だ。何より、「これで、文化が変わってしまう。」と思う瞬間が多いのだ。そして、「いいのか?」と。良き文化は守りたい、という自負を持って取り組んでいる古い人間の一人としては、抵抗を感じつつも、世の流れに逆らえるはずもなく、やらなきゃなぁ、う~ん、しかし待て、加担していいのか? と堂々巡りのようになることが多い。仕事となるとそうも言っておれず、結局は何とか、妥協点を見つけなくちゃいけないわけなんだけど。

あちこちでお話しているように、ラジオが好きだ。でも正直に言うと、話ナシで、どんどん音楽をかけてくれるラジオはもっと好きだ。

勝手ながら利用者として大変ありがたいと思ってるのは、インターネットラジオなのだ。私が好きなのは accuradio で、考えてみればいやじつに毎日、使っている。いまや iPhoneからBluetoothで飛ばしてステレオで聴いている。先日も、作業しながら聴いていたら間違うこともないクララ・ヌネスの声が突然、部屋いっぱいに響き渡った時には、思わず、心躍りました…。

気に入っているポイントはいろいろあるけど一番は、耐え難く嫌な場合でも、その曲を一つ飛ばせること! チャンネルも多い。好きなチャンネルをいくつかfavoritsに入れている。その気になれば世界の音楽がカンタンに聴けるようだ。まだ、その旅に出たことはない、というのは、私が奥手だからなんだ…。どうも音楽をカシコマッテ聴こうとしていけない。最初好きになったときはそんなことなかったじゃないか…もっと違うタイミングで、心にはひたっと入ってくるものなんだよ、きっと…。そろそろ、やってみようかな。

一方で、ストリーミングで音楽を聴く気にはどうも、なれない。これはどういうわけでしょうか? 

2020年3月18日(水) 九州ツアー中止

2020年3月21日からの九州ツアーは、コロナウィルスの関係および諸事情により中止になりました。楽しみにしてくださっていた方々、関係の方々に深くお詫び申し上げます。気持ちとしては「延期」と思っていますので、またどうか、お願いします。

なお、倉敷Penny Lane, 広島 Lush Life は、ソロで演奏致します。ヤル気も満々!

でも一応念のため、お店に開催の確認を取ってからお越し頂きますよう…お願い申し上げます。

2020年2月16日(日)日本ギター連盟ユベントスのギターコンサートに行ってきた

思い出のヤマハホール…

しかし2月10日は、日本ギター連盟ユベントスのギターコンサートがあり、前々からとても楽しみにしてチケットも買って、この日を待っていた。(…こういうことって素敵ね!)

プレーヤーは、池田慎司さん、大橋俊希さん、酒井良祥さん、坂場圭介さん、多治川純一さん、橋爪晋平さん、林祥太郎さん、藤澤和志さん、前田司さん、松澤結子さん、松本努さん。もちろん、全員がギタリストで、この日は全員がクラシックギター。

いずれも素晴らしい方々…だった。個人的にお知り合いの方も何人かいたのだけど、生演奏を聴く機会はあまりなかったので、今回はそれも楽しみだった。

一つ一つの楽曲も興味深く、また個性の全く違う方々が一同に会して様々な音色が次々と続くのにも興奮して、あっという間に時間は過ぎてゆく。素晴らしいギターの音色に身をゆだねて、幸せだなぁ…と、心から感じていた。

圧巻は、池田慎司さんのアレンジによるブラジル風バッハ第4番、11人による演奏だ。まさか、とは思っていたけれど、4番は4楽章から成っている。これを11人で、全員で⁉ 一体どうやってやるんだろうと興味津々だった。でも、本当に素晴らしかった。楽しかった。終わった瞬間に、もう一度聴きたい、せめて第4楽章だけでも、と思ってしまった。

池田さんに聞くと、今回11人による11パートに分かれていたそうだ。それで池田さんのパートは全体の演奏のバランスを聞きながら、毎日違うところを弾くことになってしまったという。すご…っ。それでリハーサルはたったの3日とお聞きしている。

この曲は、第一楽章、第二楽章では地味に静かに暗く低く、夜明け前のような感じで始まって、途中で(第4楽章の始めかな?)ポリリズムのようなのも入っているし、ヴィラロボス独特の「カオス」も十分に入っている。混沌のなかにも、“うねり”のようなものがあって、ヴィラロボスのファンとしては、それがたまらない。

11人のみんながヴィラロボスが好きというわけではないだろうし、この不思議な楽曲を理解できないまま演奏することもあると思う。そのあたりはわからないけれど、「合わなくてもいい」ようなことがヴィラロボスの楽曲には大切にされているような気もしているから。それより大切なこと…、例えば音楽が躍動しているとかいうことだ、音色が際立っていること、リズムが立っていることとか…。うまく言えないけれど。

だけど11人、全員がギターで、この前代未聞の試みをやりきるには、もちろん、人の音を聴きながら合わせたりうねったりしなければ。誰のどこのサインをみて、どうやって演奏を続けるのか、どうやってこの楽曲が成り立とうとするのか、こんなに上手な方ばかりで集まって、私にはわからないことだらけなのだけれども、必死で探ろうとしてしまう。

ほんと、いったいどうやって成り立ったのか。池田さんのアレンジ(アレンジというのかな、ディレクションというのが正しいのでは?)は素晴らしかった、聴けて良かった。勝手ながら、この会が定例なら、この曲は毎回やって育てていって欲しい、もっと良くなる、という気もした。

音楽をやっている友達と出かけて、とても楽しい夜だった。何よりも、11人の演奏家の音楽に向かう姿勢、そして音に、尊さを感じて、励まされた気がした。遥か遥か彼方まで続く大きな音楽の河の流れの中で、今日はまた、沈んだり浮かんだり流されるままに。眩しすぎる光のきらめきの水面を見ていた。